風木部

溺愛「風と木の詩」

風と木の詩その26 第五章セルジュ⑤

 
父が亡くなり、祖父も去ると、セルジュは母と二人きりになりました。
 
やがて冬が訪れる頃になると、母はよく寝込むようになっていました。
 
セルジュにはお腹に赤ちゃんがいると嘘をついていましたが、結核に感染していたのです。
 
 
 
 

アスランのお父さんも亡くなってしまった
 
 
 
バトゥール家からは、セルジュを正式に子爵家の後継者に迎えたいという手紙が届いていました。
 
アスランの主治医だった先生は、この子を手放す気なのかって暗澹とした顔つきになります。 
 
この先生もずっとアスランを見守って来たものね。
 
そりゃできる事ならば、アスランと暮らしたこの家でずっとセルジュと一緒に暮らしたいですよ。母親だもの。
 
 
パイヴァはこれまでは、アスランにバトゥール家からの追手がかからなかった事が幸いして、身分の差などという物は感じずにすんだのではないでしょうか。
 
アスランに一途に愛されて、パイヴァは一人の女性として幸福だったと思わずにはいられません。
 
そしてパイヴァはやっぱりとても強い人だと思うのです。
 
ただ愛されるだけではなく、アスランの事を母なる海のように深く豊かな情愛で受け止めてくれました。
 
なんか、今のパイヴァには女としてのやりきった感があるんですよね。
 
もうやりきったな人生、終わりにしてもいいかな~みたいなね。
 
 
 
 
そうして春になり、セルジュは一人パリへと発ったわけです。
 
今まで着た事もないような高価な服を着せられお迎えの馬車に乗ってね。
 
晴れがましく出発するんだけど、心の中ではもう母とは二度と会えないだろうって子供ながらにわかっているんですよね。
 
ママンと別れたくないとか、まだ自分の気持ちを上手く言葉に表せないほどセルジュは幼くただ泣くだけでした。
 
パイヴァはどんな気持ちで見送ったのでしょう。
 
これが、母親とは最後になりました。
 
1871年の夏。
 
セルジュは4歳でした。
 
 
 
 
セルジュは一人でバトゥール家にやって来ました
 
 
 
そんなセルジュを歓待してくれたのはアスランのお母さん、セルジュにとってはおばあさまです。
 
セルジュはバトゥール家の屋敷をお城だと思ったり、案内された自分の部屋が僕の家よりずっと広いと無邪気に驚くので召使いたちから失笑されます。
 
数年前にこの家の子息が娼婦と駆け落ちする不祥事を起こして、今その子供がやって来たのだもの、下々の者からしたら噂話に花が咲いちゃうよね。
 
しかもその子供はジプシー系の母親の血を継いで肌が浅黒いものですから、彼らの好奇心をますますそそってしまいます。
 
でもおばあさまは優しく、おまえはもうこの家の主人になるのですよと言ってくれたのです。
 
 
 今までとはまったく違う生活に戸惑います
 
 
その日の夕食、セルジュは案内された食堂の広さときらびやかさに目がくらんでしまいます。
 
おばあさまはセルジュと夕食を取る事をうれしそうにしていますが、何しろ長いテーブルの向こうとこっちでとても離れてるのです。
 
セルジュは親子3人でにぎやかに食事をしていた事を思い出します。
 
そしておばあさまに自分たちはこんな小さな机で食べてたんだ、僕のすぐ隣に父さまがいて、
とか楽しそうに話してるうちに、ふと言うんですよ。
 
「さびしくありませんでしたか、おばあさま」って。
 
この子はね~、自分だって寂しいだろうにまず人の事を考えるんですよ。
 
 
 
優しい所はお父さんによく似ています
 
 
感激したのはおばあさまだけじゃありません。
 
バトゥール家の使用人たちもセルジュに接してみると、素直さや礼儀正しさだけでなく、小さいのに他者への思いやりや優しさを持っている事に驚嘆してしまいます。
 
おばあさまはセルジュがこんなにいい子なのは母親の教育が良かったんだと、同じ女性としてパイヴァの事を感心したりもします。
 
 
けれどまだ小さいですからね。
 
心の中では母に会いたくてたまらないわけですよ。
 
 
 
 
しかし、セルジュには貴族として覚えなければならない事が山ほどありました。
 
 
ちょっと時間に遅れただけなのに・・・
 厳しい
 
 
昔のヨーロッパでは、こういう子供に鞭打ちの刑を与えるシーンをよく見ますよね。
 
しつけなんだろうけど、なんとも厳しい。
 
ヨーロッパでは子供の事を自然に近い存在だから、人間以下の動物ぐらいに見てたようです。
 
だからしつけてまっとうな人間に育てるために、体罰は一般的だったみたいです。
 
子供には人権なんてなかった時代。
 
日本では子供はもっと大事にしたと思うんですけど。
 
子供観の違いですかねー。
 
 
 
まだ4歳なのにかわいそうですが、セルジュが厳しくお勉強させられてるのには理由がありました。
 
 
 来たよー
 
 
突然やって来たのはアスランの姉リザベートです。
 
 

この年、1871年パリには普仏戦争の講和に反対した市民が蜂起して世界最初の労働者政権パリ・コミューンが成立しました。
 
この政権は72日間しか続かず、政府軍と大戦闘の後崩壊しました。
 
パリは戦火に包まれ、中心部の商店街や民家の他市庁等の公共の建物も焼失したのです。
 
 
 
リザベートは他家へ嫁いだのですが、案内も請わずに図々しく入ってきます。
 
 
 
 それを迎えたのはバトゥール家の執事
 
 
 
執事のクロードは丁寧な口調ながらリザベートをたしなめます。
 
リザベートの魂胆はわかっているのです。
 
子爵家の跡継ぎが現れたと知って慌てて偵察に来たんですのよ。
 
他家へ嫁いだ人間に我が物顔でいいように振る舞われたんじゃたまらないけど、このおばさんも厚かましいから負けてないのよ。
 
 
 
クロードは、今はまだセルジュに会わせるわけにはいかないぞと思っていました。
 
セルジュを非の打ち所がない小公子みたいに仕立てあげないと、あら探しされてどんな難癖をつけてくるかわかりません。
 
すべては来月のセルジュの正式な御披露目が勝負だとクロードもおばあさまも考えてました。
 
 


これまでいろんな執事が登場しましたよね。
 
海の天使城の老執事とか、オーギュのパリの屋敷のレベックとかね。
 
やっぱり、有能な執事は主人への忠誠心を持っていますよね。
 
このクロードも頼りになりそうな人です。
 
 
 


さて、執事から体よくサンルームに追い払われたリザベートは一気に悪口三昧です。
 
所詮はこの家の財産が目当てなのですが、ゆくゆくはおばあさまが亡くなったらセルジュの後見役におさまり子爵家を牛耳ろうという腹なんです。
 
上品ぶって気取ってはいますが、パイヴァを悪し様に言う様子はひどいものです。
 
ところが、なんでかセルジュが奥にいたのね。
 
そして自分の母親がめちゃめちゃ悪く言われてるのを聞いてしまいます。
 
 
 
((( ;゚Д゚)))
 さすがは商売女の息子だわ。早々に立ち聞きするとはたいしたものじゃないの



 
セルジュには、自分の母親がなぜそんなに悪く言われなければならないのかわからないのです。
 
こんな子供に全くもって言語道断な話ですが、おまえとあの女が子爵家を没落させたのだと責めてセルジュを小突き回すのね。
 
しかもこの意地悪なおばさんが、アスランの姉だと知りセルジュはショックを受けます。
 
おまけに目を怪我するほどの馬鹿力でセルジュを平手打ちしたのです。
 


 
でもセルジュはその事を誰にも言いませんでした。
 
優しい父と母に愛されて、それが当たり前だったセルジュの世界。
 
この世に自分を憎み害を加えようとする人がいるなんてショックで口もきけないよね。
 
セルジュは自分の中で何かが壊れていくのを感じました。
 
 

その日からセルジュは変わりました。
 
変わろうとしたのかもしれません。
 
人一倍努力して立派な子爵家の跡取りになるように懸命に勉強しました。
 
素直で可愛いい子供らしさは影を潜め、優等生に成りきるように努めているようでした。
 
 
 
 
いよいよその日が───



貴族というのも大変ですなあ。

ここにやって来た人たちはみんな鵜の目鷹の目で好意的な人はいません。

社交界での評判はともかく広大な子爵家の土地はあんな黒い肌の物になるのか、惜しがるのはリザベートだけじゃないだろうとひそひそと話しています。
 



そんな険悪ムードの中でおばあさまの話が始まります。
 
セルジュは息子アスランの忘れ形見であり、夫が死ぬ前にはっきりと地位財産のすべてを譲ると遺言した者である事。

異論もあるだろうが、それがかなわぬ時は土地財産を小作人に分け与え寄付するようにと言い残している事など。
 
みんなそれを聞くと不承不承に認めないわけにはいきませんでした。
 
 
セルジュも見事に礼儀を心得た堂々とした態度で振る舞いましたので、おばあさまはこれで肩の荷が下りたと一安心します。
 
 
 ところが大変な事態が
 


しかしながら、心労でおばあさまが倒れてしまうのです。
 
実は、この日バトゥール家にはパイヴァの死の知らせが届いていました。
 
クロードの助言でセルジュには隠していたのです。
 
おばあさまは何も言わず一人死んでいったパイヴァの事が哀れでなりませんでした。
 
こうなる事はわかっていたのに、セルジュを独占していた自分を責めていました。
 
 
 
この混乱に乗じて、リザベートは人を使いセルジュを屋根裏に閉じ込めてしまうのです。
 
 
 
その晩はひどい嵐になってしまう


よくわかんないんだけど、おばあちゃんが昏睡状態でこのまま遺言もなく亡くなってしまうと、自動的にリザベートがセルジュの後見役になれるみたいなのね。

だからセルジュに余計な事を遺言されないようにセルジュを拉致したのかな。
やる事がゲスいのよ。
 

一度は昏睡状態に陥っていたおばあさまは目を開けセルジュの名を呼びます。

が、セルジュの行方は誰にもわからず、おばあさまはセルジュの身を案じながら亡くなってしまいます。




一方、セルジュは真っ暗な屋根裏にひとりぼっちで恐ろしい嵐に怯えていました。


人が死ぬってどんな事かセルジュは知っていました。

父のように逝ってしまえば、その姿を見る事も声を聞く事も出来ない、その人はもういなくなってしまうのです。

そういった人間の悲しみという物をセルジュは既に知っていました。

 

 残酷な言葉




翌日セルジュが哀れなやつれた姿で見つかると、リザベートは追い打ちをかけるように母親の死を告げてしまいます。

セルジュはあまりの衝撃に倒れてしまいます。

リザベートはまんまとセルジュの後見役を手に入れました。





 子供には親の存在が必要です。

セルジュの胸の中は両親の事ばかりが思い出されました。

三人で暮らしたチロルの山へ帰りたくて、行けるはずもないのに病床を抜け出しフラフラとさ迷いました。




セルジュを偶然助けたのは、パリで高名な名医アントワヌ・ランジーヌでした。

ランジーヌ医師はセルジュは心臓が弱っており、心理的負担がかかり過ぎて痛みや呼吸困難を起こしているから、この子の悩みをできるだけ取り除いてやるようにと言います。

この医師の人となりを感じたクロードは、今は子爵家の名誉よりもセルジュには一人でも多くの支えが必要だと考え、助力を乞う事にします。


 
ランジーヌ医師はセルジュの主治医になってくれました



社交界の大物には弱い俗物さが露呈して、セルジュに何も言えなくなったリザベート。


子爵家の後見人という肩書きを得た叔母は、かつて華やかだったサロンを再びと三日に開けず社交パーティーを繰り広げるようになりました。


それに比して、クロード初め使用人たちは一丸となってセルジュの為に動きました。

ランジーヌ医師の指示で、屋敷の最も奥の部屋はセルジュの為に選ばれ、その一角だけは隔絶された静かな空間となるようにしたのです。

みんなセルジュの為に細心の注意を払い、規則正しく生活させ心を乱す事がないように懸命に努めました。

少しずつ元気を取り戻してゆくセルジュに、クロードはアスランの思い出話を聞かせるようになりました。

柱の傷や好きだった日だまりや愛馬の事など。

ここには父の遺した物が尽きる事なくありました。



 



そしていつしか当然の運命のようにセルジュは父のピアノへと招かれたのです。