風木部

溺愛「風と木の詩」

風と木の詩その25 第五章セルジュ④


───あれから二年の歳月が立ちました。





アスランは父親になっていました



アスランはパイヴァと共にチロルの山村で暮らしていました。

かつて、病気と闘うアスランの命をよみがえらせてくれた山々に見守られ、息子のセルジュを授かっていました。

アスランはもうすぐ21歳。


山の斜面に小屋を建て羊を飼い、庭先の小さな畑で自給自足の野菜を作り暮らしていました。

パイヴァとは正式に結婚し息子を授かった今、すべての出来事はセルジュが生まれて来る為だったのではないかと、アスランには思えるのでした。


苦労知らずの貴族の息子だった彼が、現金収入を得る為に羊飼いや鍛冶屋の見習いをやっているなんて。苦労したねぇアスラン。


けれどアスランは意外にも楽しそうで幸せそうでした。

父親から何もかも与えられるだけだったあの頃よりも、自分の力で無から築き上げた城だったからです。

パイヴァもまた過去の顔をすっかり脱ぎ捨て、しっかり者のお母さんになってました。




アスランはいい人と結ばれました。


豪華なドレスで着飾り贅沢に暮らしていた彼女が、貧しい暮らしに文句も言わずアスランを支えてくれたのです。

まだ若いのに、二人ともりっぱな父親と母親です。





セルジュに受け継がれたアスランの才能


これは指のレッスン用の音の出ないキーボードのようです。

あの駆け落ち騒動の中、荷物にこんな物を忘れなかったアスランやっぱりピアノが好きなんですね。
 
今ではすっかりセルジュの遊び道具になっていますが、アスランの才能を色濃く受け継いでいるのがわかります。

カエルの子はカエルね、と言ってパイヴァは微笑みました。





この日アスランはパイヴァとセルジュを連れて、町へ降りました。

駆け落ち者の二人を優しく受け入れてくれた、山懐に抱かれた小さな町の人々。

アスラン一家が町へ降りてくると、今では家族のように接してくれるのです。


そしてこの人々は、アスランを待っていてくれる聴衆でもありました。





町での買い出しが済むとアスランは町の人の為にカフェでピアノを弾きました



アスランはピアノの上に小さなセルジュを座らせ演奏しました。

この町の人たちは素朴で暖かい人柄で音楽好きなんです。
 
アスランが町に降りてくると、ピアノのあるカフェに集まりアスランの演奏を聞くのを楽しみにしていました。


アスランは自分の為に集まってくれる聴衆が、息子のセルジュと共に自慢でした。

そして、自分はシューベルトのように幸せだと思いました。


31歳の若さで亡くなったシューベルトは、生前大衆の前での演奏会というものはほとんどやらず、彼の聴衆は専ら気のおけない友人たちでした。
       
いつも彼の音楽に耳を傾ける優しい聴衆を持っていたシューベルトこそ、最も幸せな音楽家だったとアスランは自分を重ねていました。





この頃アスランは確かに幸せでした。

あの日記帳は今でも手元にあり、いつかセルジュに贈ろうと考えていました。
 
そうして冬になったら、家を飛び出し音信不通だった両親へ手紙を書こうか、とも考えていました。





1870年1月 セルジュ2歳10カ月



雪が積もり町へ降りる事が無理になってきました。

アスランはセルジュの為に、冬までにはピアノが欲しかったのです。

でも昔は何気なく弾いていたピアノが、今の生活ではすぐに手に入れる事は困難でした。

今日も寒い中を材木運びの仕事に行かねばなりません。

あのアスランが、肉体労働に従事しているなんてワッツが知ったら何て言うでしょう。

アスランは無理の出来ない身体なのに。


パイヴァもアスランが働き過ぎだと心配していました。


でもアスランは若いから若さを過信してたのね。

それから頑張り過ぎてしまうから。

アスランはいずれはセルジュを、ラコンブラード学院へ入れてやりたいと思っていたのです。

アスランが青春を送った、素晴らしい友人や素晴らしい先生と出会ったあの学院へ。


ピアノも買ってやりたいし、やっぱりお金が必要でした。





胸の痛みと共に喀血するアスラン


その日、薪運びの仕事まで引き受けて無理をしたアスランは、ついに血を吐いてしまいます。


結核の再発でした。



アスランが薪運びをしていた屋敷の夫人はとても優しそうな人でした。

体調の悪そうなアスランをわざわざ見に来てくれたのです。

雪を避ける為に入った納屋の中で、子供用に作らせたピアノが置いてあるのを見つけたアスランは思わず「譲って下さい」という言葉が口をついてしまいます。





僕はもうこの冬限り働けないかもしれない


図々しいと思いながらも、病気が再発してはもう働けないと思うアスランは、必死で頭を下げました。
 
するとその夫人は事も無げにピアノを譲ってくれると言い、その代わりに自分と娘の為に一曲弾いて欲しいと頼むのでした。

夫人はアスランの事を知っていて、町で人気のピアノ弾きだと思っていたのです。


しかしながら、自分のピアノをお金と交換する事は決してしなかったアスランの表情は、曇ってしまいます。


夫人には小さな娘がいて、アスランが自分たちの為にピアノを弾いてくれると聞き大喜びです。




ピアノまで駆けていく少女の後ろ姿にセルジュが重なる



アスランはピアノを弾く為にその屋敷の中へ入りますが、豪華な内装がかつて自分が暮らしていた屋敷を思い出させるのでした。

子供の頃の自分とセルジュとが、広い庭を走ってゆく幻影をアスランは見た様な気がしました。


アスランはセルジュの為に我慢してピアノを弾いたのですが、親子はとても喜んでいました。


でも「持つ者」が優しく無邪気に「持たざる者」を傷つけている事を夫人は知りません。

アスランもかつては「持つ者」でした。

あんな贅沢な暮らしをアスランも昔はしていました。





アスランを探すパイヴァ


喀血するという事はもう大変な状態だよね。


アスランはやっとの思いでセルジュのピアノを荷馬車に積み、冬籠りの為の食糧やらセルジュの為の楽譜やら必要な物を買い込みました。

これらはすべて与えられた物ではなく、紛れもなくアスランが己れの力で得た物なのです。

セルジュ、セルジュ、待っておいで、って心の中でつぶやきながら。


必死で、雪の中を戻る途中力尽きて倒れてしまいます。


主のいない荷馬車だけが戻ってきたので、パイヴァは泣きながら探しました。









───季節が変わり、サナトリウム(結核の療養所)を一人の男性が訪ねてきました。




ここにアスラン・バトゥールと言う者がおりますまいか?


アスランのお父さんでした。
 
お父さんはどうして知ったのかしら。

パイヴァの驚きようを見ると彼女が知らせたわけではないようだし。

お父さんはこの時とても後悔していました。

探そうと思えば探せたのに、自分を捨てた息子がどうしても許せなくて意地になって追わなかった事を。

こうして病気が再発した息子に会う為に来て、自分はなんてつまらない意地を張ってたんだろうって思っていたのです。

そして自分が声をかけた女性が、看護婦ではなくあの娼婦だったと知り驚きます。

病気になった息子なんてとっくに捨てて、逃げたものだと思っていたからです。





ようやく親子は再会しました


五年振りかな。

アスランは23歳になっていました。

驚くほど昔と変わらぬ素直さで「お父さん」て呼ぶアスラン。

でもその姿は痩せて肌は青白く、昔のアスランしか知らないお父さんはつらかったでしょうね。

もうこれは長くないなって感じたろうし、なんでもっと早く会わなかったのかと自分を責めたと思います。

子供に先立たれる親のつらさは今も昔も変わりないですよ。


「お母さんは元気ですか」とアスランが聞くと、社交界に顔を出さなくなってずいぶん老け込んだけど、だがそれで良かったよと答えました。

社交界なんてくだらない、親兄弟の大切さより世間体を重んじる虚飾の世界だとわかったって、お父さんは静かにアスランに話したのです。

でもそれだけで自分の駆け落ちのせいでどれだけ家族が迷惑を被ったか、どれだけバトゥール家が窮状に陥ったかがアスランにはわかりました。

アスランは次にこう言います。
 

「ぼくは謝らなければいけないのでしょう?」


アスランのこの一言でお父さんはハッとします。

この一言がこの親子のこれまでの関係性を如実に表しているんですよね。

でももう今のアスランは謝る事は出来ません。

これは自分で選んだ道。

謝る事は自分の選択が間違っていたと認める事になるからです。




アスランの後悔が語られます



アスランは自分の短い人生を振り返ります。

ピアニストになりたかった夢を捨ててしまった自分。

誰かが傷つくのが嫌で自分の意志を通す事が出来なかった自分。

自分は臆病な卑怯者だと、自分で捨ててしまった青春を取り戻したくて、あがき続ける無力なバカ者だと、アスランは言いだします。

ここにきて、アスランの人生が後悔だらけなんだと突きつけられるようで、とても胸が苦しい場面です。

うーん。でもアスランはまだ23歳です。この若さで妻や幼い子供を残して死んでゆく無念を思えばね。とてもじゃないけど満足感や幸福な気持ちなんて持てるはずありませんよね。


才能や財力や地位があっても、それを持つ者の内に「力」がなければなんにもならない、自分にはそれが欠けてたってアスランは言うのね。




息子にそんな事言われて泣いてしまうお父さん


この親子はわかりあえなかったけど、お互い愛していたんですよね。

まあ親子も相性というのがありますから。



ここでアスランの言う「力」は、自分自身の為に生きようとする力でしょう。

そうして自分にはなかったその力を与えてくれたのが、パイヴァだったんだとそんな事を言います。

アスランは決して、娼婦に騙されて駆け落ちなんてやらかしたわけではなかったんだと、お父さんは知るのです。





その後アスランは危篤に陥り、子供は病室へ入れてもらえず、セルジュは一人で廊下にいました。

そこで、同じサナトリウムの死を前にした患者なんでしょうね。

セルジュに近づいてきておめえの親父死ぬぜ、とか言ってくるのね。

ヨレヨレのおっさんなんだけどとても恐くてセルジュに「俺が死んだらおめえに乗り移ってやる」とか不吉な瘴気を出してるわけですよ。

セルジュはその男を死神だと思って怯えてしまうんです。




アスランは亡くなり寂しい葬儀が執り行われました。




短かったけど一生懸命に生きたアスランの人生


「あの人は最後まで自分が建てたお城に帰りたがっていました」とパイヴァに聞かされ、お父さんもアスランの小屋へと行く事にします。

そこは不便な隣人もいない山の中の粗末な小屋でしたが、お父さんはアスランの魂が宿っているかのように感じました。

堪り兼ねたお父さんは、パイヴァ共々セルジュをバトゥール家に迎えたいと切り出します。

でもあまりに突然の話で、また自分のような女が子爵家に入るなど恐れ多いとパイヴァははね付けてしまいます。


ところがセルジュの様子がおかしく、高熱を出して寝込んでしまうのです。



あの時のお医者さん

セルジュはあの日の死神の姿にうなされていました。

こういう幼い子供が人の死に直面すると、その動揺とか衝撃とかは計り知れないものがあると思います。

まだ幼いからわからないだろうと大人は考えがちですが、幼いなりに死を理解してる気がします。

あの死神が突然後ろから現れてお父さんを連れていってしまったと、すごく恐くて、トラウマになってるよね。


アスランのお医者さんが、お父さんは死神に会っても逃げずに戦ったんだ、だから君も生きなくちゃ駄目なんだと話して励まします。

その経験はセルジュの内面に強烈な影響を与えました。







やがてアスランのお父さんはパリへ去り、パイヴァはセルジュを手離す決心をしていました。